勤務先による賃金の相殺は許されるのでしょうか。
Q. 勤務先から、今月分の給料は私が以前勤務先から借りた50万円の返済に充てるので、私に支払う分はないと言われました。このような扱いは許されるのでしょうか。
使用者による賃金の相殺は許されるのか
賃金の支払いは、労働者の生活の基盤である賃金を確実に受領させるという趣旨から、原則として、決められた期日に、約束された賃金の全額を支払わなければならないものとされています(全額払いの原則)。
この賃金の全額払いの原則により、賃金から何らかの金銭を控除することは、基本的に禁止されることになります。賃金からの控除が許されるのは、原則として法令に基づく場合(所得税の源泉徴収や、過半数組合との協定による場合など)に限定されます。
そこで問題となってくるのが「相殺」です。
相殺とは、ある人に対して負担している債務を、その人に対して有している債権をもって、対当額で消滅させるという意思表示をすることです。使用者が、労働者に対して有している何らかの債権(例えば貸金債権)をもって、賃金債権(使用者からみると賃金債務)と相殺することができるすると、当然、支払われる賃金は減額され、全額を支払ってもらえないということになります。そのため、賃金債権の相殺を認めることは、全額払いの原則に違反しないのかということが問題となるのです。
一般的には、使用者による賃金債権の相殺は、全額払いの原則に違反し、原則として禁止されていると解されています。相殺は一方的な意思表示で行うことが可能ですから、安易に相殺が許容されると、労働者はそれを覆すために訴訟を起こさなければならないなど、不安定な地位に置かれ、労働者の生活がおびやかされるおそれがあるからです。
この点については、最高裁判所も、全額払いの原則には賃金債権相殺禁止の趣旨も含まれていると解しています(関西精機事件・最判昭和31年11月2日、日本勧業経済会事件・最判昭和36年5月31日など)。
したがって、質問のケースのように、使用者によって賃金債権が他の債権と相殺されたとしても、その相殺は無効であるとして、労働者は使用者に対して賃金全額の支払いを請求できるということになります。
労働者の同意を得て相殺を行った場合
それでは、使用者による一方的な相殺ではなく、使用者が労働者の同意を得て相殺を行った場合は、どう考えるべきでしょうか。労働者の同意がある場合であっても、やはり相殺は無効となるのでしょうか。
この点について、最高裁判所の判例によれば、相殺の合意がある場合には、労働者の同意が、労働者の自由意思に基づいてなされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在する場合に限って、有効と解されています(日新製鋼事件・最判平成2年11月26日など)。
要するに、労働者の同意があれば、賃金債権と他の債権を相殺することも許されますが、その同意は、労働者の自由意思に基づいてなされたものでなければならないということです。使用者から強要された場合など、労働者の自由意思に基づくものではないと判断される場合には、形式的に相殺合意があったとしても、やはり全額払いの原則に違反し、相殺は無効となります。
賃金の過払いがあった場合
このような場合に、その過払い分を翌月の賃金から差し引くような扱い(「調整的相殺」と呼ばれています)については、実質的には賃金全額は支払われているといえることから、時期・方法・金額などからみて労働者の経済生活の安定をおびやかすおそれのない場合であれば、全額払いの原則には違反しないとされています(福島県都教組事件・最判昭和44年12月18日など)。